旅の終わりをみつける。

[ 小さな星日記 ]

96年の今頃、僕はインドにいました。

95年の6月、ロスアンジェルスを皮切りに北米大陸、NYからロンドンへ、そこからヨーロッパからアジアへ東へ東へと、つまり前に進めば進む程、日本へどんどん近付く僕の旅。
旅行に出てすぐに、この旅行をしたくらいでは、当たり前だけどヒトカドの人間になれるわけではないと気付き、いや、だったらどうやったら、日本に帰ろう、と思うのか、旅を終えようと思えるのか....古代の遺跡や、大きな砂漠、それともモンゴルの大草原???...それを見たというだけで、満足して日本に帰る気になるんだろうか?
もしかしたらモンゴルあたりから、シベリア鉄道に乗ってもう一度ヨーロッパへ戻る、すごろくみたいな展開になってしまうのではなかろうかという心配がありました。そのくらい、旅の終わりを見つけることは困難に思えました。

クリスマスのミサをバチカンで見てから僕は、ローマ法王の次はダライ・ラマだなと、なんとなく思っていました。思いがけず不法滞在(苦笑)してしまったパキスタンから、這々の体でインドへ入国すると、僕はすぐにダライ・ラマの亡命政府のあるダラム・サラへ向かいました。
時期はちょうどチベットのお正月のあと、チベタンオペラ開催のちょっと前、ということで、山の上にある本当に小さな町は、観光客で一杯、夕方に小さなバスで着いた僕は、それから宿を探すも、ひとつのベッドも見つからず、やれやれ山の麓の少し大きな街まで下りざるを得ないかとあきらめかけた頃、なぜかずっと僕を案内してくれた、チベット人の男性がある宿に掛け合ってくれて、そこの従業員用のベッドに一晩の寝床を得ることができました。

次の日、一宿のお礼を言い、ぼくは新しい宿に移って、小さな町を歩き回りました。
3月から4月。インドは乾期で、猛暑の季節です。
でもヒマラヤの山間、この小さな町は、まるで日本の春そのもの。菜の花が一面に咲き、モンシロチョウが群れて飛んでいました。チベット人も、ほとんど日本人と同じ顔をしていて、そして、とてもやさしくしてくれた。インドの中の、仏教のこの町で、僕は自分が今まで育ち、生きてきた価値観の中で行動していれば、何も間違えることがないだろう、欧米・中東と人種も宗教も違うところを長く旅して、僕はいつのまにかかなりの緊張状態だったのかもしれません。
なんだか一気にほっとしてしまいました。

そして、あぁ、やっぱり日本ってすごくいいかも、と思いました。
旅に出る前、外の世界も見ず、そして日本のこともあまり知りもしないで、なんとなく日本が嫌いなような気がしてたけれど、いや、日本って僕が気持ちよく暮らすにはぴったりなところなんだな、あぁ、そうか、もう日本に帰っても大丈夫なんだなと、僕はそこで思いがけず旅の終わりをつかまえることができました。

ダライ・ラマ14世に握手していただいたのも、いい思い出になり、そして次はマザー・テレサ、そしてアウンサン・スーチーさんだな、と僕のミーハーな偉人巡りとこれ以降の旅は、底抜けに楽しんだおまけ旅。
ホントにアジアは楽しかった。

でもこの話は、またどこかで。

 
この記事につぶやく。 感想など送る。 このページのトップへ。